子連れベトナム、無事終了!子供2人の感想は




2018年8月末から始まった、親1人子2人のハノイ生活。

約半年という短い期間でしたが、このたび子連れハノイ生活が無事終わったので、記憶の記録のためにつづります。

最初はとても不安で想像もできなかったけど、行ってしまえば心地よい時間の流れの中で私は羽を伸ばし(笑)、そして子供たちは思ってた以上に適応が早く、貴重な経験をさせてもらいました。

ベトナム・ハノイでの子育て

そもそもこの、子連れ海外赴任は、私の仕事の都合上行くことになったものでした。

これより前、2016年にも1回、10日ほどのハノイ出張があったのですが、その時は春休み期間だったので、子供を遠方にいる祖父母に預けて行きました。

子供はじじばばが大好きだから、実際何の問題もなかったのですが、私自身は行く前から、そしてハノイ滞在中も、子供と離れることについて不安感がいつも心の奥にあって。

もし次、長期滞在しなければいけないことがあるなら、自分が大変になっても離れて心配しているよりかはましだから、子供を連れて行こう、と思っていました(主人には仕事の関係上、子育てを任せられない事情があります)。

ハノイ旅行1 子供へのお土産&大好きローカルフード

2016-05-05

とはいいつつ、私の場合は会社から派遣される訳ではないので、お金のことも、ビザのことも、学校の手配も、全部自分でやらなきゃいけない。

いろんな手続きのことを考えると面倒になって、いっそのこと長期滞在はやめにして自分だけ短期間滞在を繰り返してやるか・・・とも考えたのですが、

それでも結局、子供の世話をどうするかという問題はクリアにならない。

第一、子供が「ママと離れるのは絶対いや」だと言っている。

そうだそうだ、一緒に連れて行こう!

子供にも海外生活の経験、特に途上国の生活を実際に見るという経験を持ってもらいたい!

と、前向きな感情が出るときもあったのですが、やっぱりやめるか・・・なんて気持ちになるときもあり、なんだか足踏み状態の準備期間。

その間約1年。

そんな中で、あれよあれよと助成金が決まったり案件が評価されたりして、いろんなベクトルが「ベトナムに行かざるはあり得ない」の方向を指し始めて、自分の気持ちとは裏腹に外堀から固められていった状態。

ビザだけは最後の最後まできちんと出るか分からない状態で、それがクリアになった時、ようやく腹をくくった感じです。

子連れハノイ留学:留学ビザ取得までの顛末をまとめました

2018-08-10

娘はといえば、海外とか歴史とかに興味がある子なので、「行きたい行きたい!」という感じでしたが、息子はまだ2年生で、ベトナム?海外に住む?分かってはいるけど、いまいちピントは来ていないような状態でした。

母1人子2人のハノイ生活の始まり

そしてハノイに渡りました。
子供たちは学校での最初の面談は面食らったようで、日本人学校の前で撮った写真は2人ともどよ〜んとした顔で写っています。

ハノイ日本人学校の面談終了:来る前には分からなかった事とは

2018-08-29

でも、その帰りに気分を変えさせてあげたいと立ち寄ったカフェで、生オレンジジュースと生パイナップルジュースを初めて飲ませたところ、

「こんなおいしいジュース、毎日飲みたい!」とアゲアゲに。

あまりのテンションの違い(笑)

私は最初の数週間は、銀行口座開設、送金、もろもろの支払いなどの手続きや、アパート探し、契約・・・ぜーんぶ自分でやらないといけないので事務量はかさみましたが、思った以上にスムーズに行きました。

それもこれも、やっぱり大家さんに出会えたことが大きかった。

ベトナムでは、サービスアパートに住むのでない限り、大家さんとの関係がベトナム生活を大きく左右すると思っていますが、その点、信頼に足る大家さんにお世話になることができたことが、本当にラッキーなことでした。

あとは、20代の時にいた頃よりも、なんかベトナム人が優しかった。

子連れのおばちゃんには優しいのかも(笑)

生活について

生活面も、予想を大きくはずれてほとんど不便なことはなかったです。

私は2000年代の初めにハノイで働いてたのですが、その頃の「モノはないわけじゃないけど買えるモノがない」のイメージが大きくて、安全な食材をどこで買えばいいんだろう?というのが一番の心配事でした。

当時は地元のスーパーと言えば、ホアンキエム湖の周辺にあったIntimex(今はなき)くらいしかなく、あとは西友(今はなき)にちょこっと日本食材があるかな、という感じ。

しかも生鮮食材なんてほとんど売ってないので、料理をしたいなら衛生状況が良いと言えない市場で肉・野菜を買うしかない。

それが今ではVin系のスーパがどこにでもあって、韓国系のコンビニもあって、なんなら市場の方が新鮮な肉が手に入って・・・ 住みやすい街に変貌しておりました(昔と比べて、ね)。

日本人学校の先生方、お友達、ママさんたちにもほんとうによくして頂きました。

まあ、学校や英語教室ではなんだかんだ小さなトラブルはありましたが。

私は「どこでもあるよな」という思いでしたが、娘や息子本人にはチクっとする経験だったとは思います。

でも全くひきずる感じではありませんでしたが。

息子は帰国日前日、熱を出してなんと学校をお休みしてしまったのですが、2人のお友達がわざわざバイバイを言いに電話をかけてきてくれました。

息子は元気に「ありがとー!またなー!」と言っていましたが、「息子がどうしても最後に話がしたいと言っていて」というお母さんの言葉に、私は涙。

ほどなく帰ってしまうことが決まっていた私たち家族なのに、一緒に遊んでくれたり、誘ってくれたり、本当に本当に、感謝しかありません。

帰りたくないと泣く娘

帰国する2週間前くらいから、娘は毎晩「日本に帰りたくない」と泣くようになりました。

一方、息子は「ぼくはもういいや〜」。

息子はコロコロコミック愛読者なので、日本の漫画やアニメが見られる環境がよいのでしょう。

あとは息子はやはり、道の汚さとか、交通事情の悪さとかに対して、子供なりに辟易していたみたいです。

目線が大人と比べて低い分、道の汚いものもよく見えるし、車やバイクが顔の真正面に迫ってくる感じで怖さが増すんだろうなと思います。

いろんな意味で、子供の成長を感じることができましたが、1つ驚いたのが、娘がふと、「私、将来貧しい人を助ける仕事がしたい」と言い出したことです。

私たちに部屋を貸してくれてたような大家さんみたいなリッチな家族もいれば、そうでない人もいる。

貧富の差が激しいことも実感したでしょう。

アパートの敷地を出たら、そこはどローカルですし、私もよく娘を連れて市場にいったり路地の中を散策したりしていたので、ハノイの社会事情は親が語らずとも幼い肌で感じていたはずです。

道ばたで、ガムやティッシュや綿棒を売っているご老人。

バスターミナルでお金を乞う障がいのある青年。

ホーチミンでは、昼間はいないのに夜になると橋の上の歩道の部分に力なく座りこんでいる人たちを見ました。

物乞いの人たちに、私はお金を渡したり渡さなかったり、その時々なのですが、私が渡さなかったりすると、娘は「あー自分のお金持ってくればよかった」と言うようになっていました。

お金を渡すことの是非はともかく、子供ながらに思うところがあったのだなあと思います。

全てのことに感謝しかない

半年間という短い時間だったけど、ほんとうに濃い半年間でした。

私も本当に楽しかった。というか、人のやさしさに改めて触れたというか・・・うー、涙。

子供と一緒にベトナムに行かれて本当によかった。

思い切って行ってよかった。

子供の心に、何かが残り続けてくれたらいいな。

ベトナムで撮った写真はプリントして、常に見られる状態にしました。

特に息子は記憶の上書きが激しいので、少しでも手元に思い出の証拠となるものをおいておきたかったので。

それを見ると、今では息子も「ベトナム行きたいなー」と言うんですよね。

それが意外でもあります。でも、楽しい思い出がたくさん残ってくれているなら、有り難いことです。

学校からいただいたイヤーアルバムも、折に触れ眺めています。

お友達の名前もいまだにすぐ出てきます。

「ともに学ぼう 元気よく 火炎樹咲くよ ハノイの空に」
「ともに結ぼう 僕たちの 夢があふれる 二つの国を」

これは、ハノイ日本人学校の校歌の歌詞の一節なのですが、この校歌が本当に平和で、エモーショナルなんですね〜。

今でも誰かがふと口ずさむことがあって、そうすると3人で合わせて大声で歌っちゃいます。

学校のお友達の中には、私たちよりもずっと長く、これからもベトナムで過ごすお友達もいますし、ハノイを離れて別の国に引っ越ししたお友達もいます。

ハノイで知り合ったみんなが、安全に、健康に、そして、海外でたくさんの事を感じて、たくさんの楽しいことが経験できることを、願わずにおれません。

●★

帰国後、日本の小学校の国語の授業で、詩を作った息子(小2)。

詩じゃなくて標語になってる(しかもストレート)。

やっぱそこかい!




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ABOUTこの記事をかいた人

2児の母。何を血迷ったかアラフォーにして大学院に入り、博士号取得。一時期専任になるも現在は非常勤講師。自分が楽しいと思うことをやり、言いたいことを言うために、じりじりと邁進中。